「破山寺後禪院」(常建)
清晨入古寺(清晨 古寺に 入れば)
初日照高林(初日 曲徑通幽處(曲徑 幽處 禪房花木深(禪房 花木 深し) 山光悦鳥性(山光 鳥性を 悦ばし) 潭影空人心(潭影 萬籟此倶寂(萬籟 此 惟聞鐘磬音(惟 鐘磬 ≪訳文≫清らかな朝 古びた寺に入ると、朝の光が 樹々の梢を照らし、曲がった細径が奥深く迄通じ、禅房の辺りは花木が深々と生い茂っている。 山の輝きは 飛び回る鳥を悦ばせ、澄んだ淵は 人の心を洗い清め、 すべての音はひっそり謐まりかえり、 遠く微かに 鐘と馨(平鐘)の音が聞こえるのみである。 |
「人間好時節」(無門関)
春有百花秋有月(春に 百花有り、秋に 月有り)
夏有涼風冬有雪(夏に 涼風有あり、冬に 雪有あり) 若無閑事挂心頭(若し 閑事を 心頭に挂くる無くんば) 便是人間好時節(便 ≪訳文≫春には百花が美しく咲き、秋には愛でる月があり、夏には涼風に身体を涼め、冬には真っ白な雪にこころを洗われる。 若し我々が些細なことに心を惑わされず、物事に執着しないならば、 こんな有難い四季のある人間 |
「楓橋夜泊」(張継)
月落烏啼霜満天(月 落ち 烏 啼いて 霜 天に 満つ)
江楓漁火対愁眠(江楓 漁火 愁眠に 対す) 姑蘇城外寒山寺(姑蘇 城外 寒山寺) 夜半鐘声到客船(夜半の 鐘声 客船に 到る) ≪訳文≫月は沈み夜烏が啼き、霜の降りる気配が天に満ち満ちて冷え込んで来て、川岸の楓の木々や漁火が点々として、旅愁に眠れない私の目に映る。 姑蘇 打ち鳴らされる夜半を告げる鐘の音が、私の旅の船にまで響いて来る。 |
「夏日題悟空上人院詩」(杜荀鶴)
三伏閉門披一衲(三伏門を閉じて 一衲を披く)
兼無松竹蔭房廊(兼ねて松竹の 房廊を蔭 安禅不必須山水(安禪は必ずしも 山水を須 滅却心頭火亦涼(心頭を滅却すれば 火も亦涼し) ≪訳文≫暑さの厳しい時節その上、強い日差しから住まいを蔭ってくれる松や竹の樹木も無い。 しかし、座禅をして修業に励むには、必ずしも山や川を必要としない。 暑いと思う心を消し去れば、火でさえ自然と涼しく感じられるものである。 |
「江南春」(杜牧)
千里鶯啼拷f紅(千里 鶯 啼いて緑 紅に映ず)
水村山郭酒旗風(水村 山郭 酒旗の 風) 南朝四百八十寺(南朝 四百八十 多少樓臺烟雨中(多少の 楼台 烟雨の中) ≪訳文≫広い大地の方々で鶯が鳴き、木々や花々の緑と紅とが照り映えていて、水辺の村や山あいの村では、酒屋の旗が春風に翻 仏教の栄えた南朝の時代、この辺りには多くの寺が建てられたが、 今なおその多く(多少)が名残をとどめ、煙るような雨の中に見える。 |
「春曉」(孟浩然)
春眠不覺曉(春眠 暁を 覚えず)
處處聞啼鳥(処処 啼鳥を 聞く) 夜來風雨聲(夜来 風雨の 声) 花落知多少(花 落つること 知る 多少) ≪訳文≫春の眠りは心地よくて、中々目が覚めないでいると、あちこちで鶯が鳴いているのが夢うつつに聞こえる。 そう言えば、昨夜は雨風が激しかったようだが、 多分、相当沢山の花が落ちた事だろう。 |
「山亭夏日」(高駢)
緑樹陰濃夏日長(緑樹 陰濃
楼台倒影入池塘(楼台 影を 倒して 池塘に 入る) 水晶簾動微風起(水晶簾 動いて 微風 起こり) 一架薔薇満院香(一架の 薔薇 ≪訳文≫樹々の木陰は緑が濃く、夏の日差しは長く、池畔の高楼はその影を逆さまに倒して池に映している。 水晶の簾 棚に置いた薔薇の香りが院の内外一杯に立ちこめている。 |
「春夜」(蘇東坡)
春宵一刻値千金(春宵一刻 値 千金)
花有清香月有陰(花に 清香 有り 月に 陰 有り) 歌管楼台声細細(歌管の 楼台 声 細細) 鞦韆院落夜沈沈(鞦韆 ≪訳文≫春の夜の素晴しさは、ひとときが千金にも値する。花は清らかな香りがただよい、月はおぼろに霞んでいる。 楼閣から聞こえていた歌声や管弦の宴の賑わいも終わり今はかすかに聞こえるばかり。 ぶらりとブランコ(鞦韆)の垂れ下がった中庭(院落)も、夜が静かに更けていく。 |
「漁翁」(柳宗元)
漁翁夜傍西巌宿(漁翁 夜 西巌に傍
暁汲清湘燃楚竹(暁に 清湘を汲みて 楚竹を 燃 煙銷日出不見人(煙 銷 欸乃一声山水緑(欸乃 廻看天際下中流(天際を 廻看して 中流を 下れば) 巌上無心雲相逐(巌上 無心 雲 相い逐 ≪訳文≫漁師の老翁がひとり、西岸の岩の下に舟を停めて夜を過ごし、暁には、清らかな湘江の水を汲み、楚竹(篠竹)を焚いて朝餉の支度をする。 朝靄が晴れて日が昇ってくると、もはや既に漁翁の姿は見えず、 そこには「ギーギー」と櫓を漕ぐ音だけが響き、山水が青々と輝いている。 遥か彼方を巡り見て、川の中ほどを漕ぎ下って行けば、 昨夜舟を停めた岩の上空には、無心の雲が流れている。 |
「竹里館」(王維)
独坐幽篁裏(独り 坐す 幽篁の 裏
弾琴復長嘯(琴を 弾じて 復た 長嘯す) 深林人不知(深林 人 知らず) 明月来相照(明月 来たりて 相照らす) ≪訳文≫自分ただ独り、奥深い竹藪の中の座敷に坐り、琴を弾いたり、詩を吟じたりしている。 この奥深い竹林は、人に知られることも訪れる者もなく、 ただ明るく輝く月だけが、親しく私を照らしてくれている。 |
「江雪」(柳宗元)
千山鳥飛絶(千山 鳥の 飛ぶこと 絶え)
万径人蹤滅(万径 人蹤 滅す) 孤舟蓑笠翁(孤舟 蓑笠の 翁) 独釣寒江雪(独り 寒江の 雪に 釣る) ≪訳文≫遥かに山々の嶺を見れば鳥の飛ぶ姿も見えず、幾条もの小道では人の足跡も雪に消えた。 ぽつんとひとつだけ浮かんだ舟には蓑笠着けた翁(自分?)が、 雪の降り頻る川で独り釣り糸を垂れるている。 |
「山行」(杜牧)
遠上寒山石径斜(遠く 寒山に上れば 石径斜めなり)
白雲生処有人家(白雲生ずる処 人家有り) 停車坐愛楓林晩(車を停めて坐 霜葉紅於二月花(霜葉は 二月の花より 紅なり) ≪訳文≫遠くの寒々とした山に登ると、傾斜した石小道が続いていて、霧のような雲の懸るこんな高所でも民家がある。 車を止めて、何気なく楓の林の夕暮れを眺めていると、 霜がかかって赤くなった紅葉は、二月に咲く桃の花よりもずっと赤い。 |
「秋浦歌(其十五)白髪三千丈」(李白)
白髪三千丈(白髪 三千丈)
縁愁似箇長(愁ひに 縁りて 箇 不知明鏡裏(知らず 明鏡の 裏 何処得秋霜(何れの 処にか 秋霜を 得たる) ≪訳文≫私の白髪は何とも長く(三千丈)伸びてしまったものだが、長年の愁いによってこんなにも長くなってしまったのだろうか。 鏡に映るのは確かに自分なのだが、全く知らない誰かを見るようで、 どこでこんな白髪(=秋霜)を伸ばしてしまったのか。 |
「探春」(戴u)
盡日尋春不見春(盡日 春を尋ねて 春を見ず)
杖藜踏破幾重雲(杖藜 歸來試把梅梢看(歸り來りて 試みに 梅梢を把 看れば) 春在枝頭已十分(春は 枝頭に在りて 已 ≪訳文≫一日中、春を探して歩き回ったが、春は見あたらなかった。杖をつきながら(杖藜)、幾つもの峰々(幾重雲)を踏み歩いたのである。 疲れ果てて帰って来て、庭の梅の木をふと見上げると、 梢の蕾はすっかり膨らんで、已に春の気配は十分であった。 □杖藜…⇒芒鞵踏遍隴頭雲(ぼうあい(草鞋)踏み破るろうとう(山名)の雲) □歸來…⇒帰来適過梅花下(帰来適(偶々)過ぐ梅花の下)に作るものが有る。 |
「対酒」(白居易)
蝸牛角上争何事(蝸牛 角上 何事をか争う)
石火光中寄此身(石火光中 此の身を寄す) 随富随貧且歓楽(富に随い貧に随いて且 ≪訳文≫蝸牛火打石の火花の如く短く儚い時間の中に、私達は身を寄せ合っているのだ。 ならば、裕福だろうが貧いかろうが、全てその定めに随って人生を歓び 楽しもうではないか。 大口を開けて笑わない(人生を楽しまない)奴は 大馬鹿者(痴人)だよ。 |
「偶成」(朱熹=朱子)
少年易老学難成(少年 老い易く 学 成り難し)
一寸光陰不可軽(一寸の 光陰 軽んず べからず) 未覚池塘春草夢(未だ覚めず 池塘 階前梧葉已秋声(階前の 梧葉 ≪訳文≫若い時代は移ろい易く、あっという間に歳をとるが、学問は中々成就しない、だからこそ、僅かな時間さえも無駄にしてはならない。 池の畔 たちまちに階 |
「午睡律詩」(石井雙石)
老仙招我出塵寰(老仙 我を招きて塵寰より出で)
飛上江南万里山(江南 万里の山を飛上す) 翡翠巖頭撥雲臥(翡翠の岩頭 雲臥を撥し) 芙蓉峯下躡星攀(芙蓉の峰下 星攀を躡 呉波楚岫互呑吐(呉波 楚岫 互いに呑吐し) 白虎青羊相往還(白虎 青羊 相い往還す) 夢覺午窓堪一笑(夢覚むれば午窓 一笑を堪え) 清遊只在瞬時閨i清遊 只だ瞬時の間に在り) ≪解説≫年老いた仙人に、この煩わしい世から連れ出され色々な超俗の思いをしたが、目が覚めればそれは一瞬の如き夢であった、という内容。石井雙石(篆刻家)の代表作の一つで、小印を多数捺したものではなく、一つの大きな石に刻したもの。雙石は当時の文人に違わず多くの詩作有。 |
「采菊東籬下 悠然見南山」(禅語として)また、『禅語字彙』には、「陶淵明の詩句を禪話に轉用して、佛法世法、倶に超越したる大閑人の境界をいふ」とある。・・・等々、禅語として多く親しまれている句。 |
「飲酒」(陶淵明)
結盧在人境(盧を 結びて 人境に あり)
而無車馬喧(而も 車馬の 喧 問君何能爾(君に 問う 何ぞ 能く 爾 心遠地自偏(心 遠ければ 地 自ずから 偏なり) 采菊東籬下(菊を 采る 東籬の 下) 悠然見南山(悠然として 南山を 見る) 山気日夕佳(山気 日夕に 佳く) 飛鳥相与還(飛鳥 相与 此中有真意(此中に 真意 あり) 欲弁已忘言(弁ぜんと 欲すれど 已に 言を忘る) ≪訳文≫人里に庵を結んで住んでいるのだが、車の走る騒々しい音は聞こえない。「どうしてそんなノンビリができるんだ」と君に問えば、 「心が俗世から離れていれば、自然と僻地にいる様な気分になる」と答える。 東の垣根のところで菊を取ったり、のんびりと南山を眺めたりしていると、 山の空気は夕方が特に素晴らしいし、鳥は連れ立って巣に還っていくし、と、 こんな暮らしの中にこそ真意ありと、言おうとするのだが中々説明出来ない。 |
「勧学」(陶淵明)
人生無根蒂(人生 根蒂
飄如陌上塵(飄として 陌上 分散逐風轉(分散し 風を追って 転じ) 此已非常身(此れ 已 落地爲兄弟(地に落ちて 兄弟と為る) 何必骨肉親(何ぞ必ずしも 骨肉の親 得歡當作樂(歓を得ては 当 斗酒聚比鄰(斗酒 比隣 盛年不重來(盛年 重ねて来たらず) 一日難再晨(一日 再び晨 及時當勉勵(時に及んで 当 歳月不待人(歳月 人を待たず) ≪訳文≫人生は木の根や果実のヘタのような確りした拠り所の無い、ふわふわと舞い上がる路上(=陌上)の塵のようなものだ。 あちこち風に吹き散らされて、常に同じ自分の身ではない。 この世に生まれたら皆兄弟のようなもの、何も血縁に拘る必要はない、 嬉しい時には大いに楽しみ、酒をたっぷり用意し近隣の友達と一緒に 飲もう。 意気盛んな時節は二度とは戻ってこないし、一日に二度の朝も無い、 何よりもその時々、飲酒なり、学問なり、仕事なり、今、眼前の事態に 精一杯励もう、歳月は人を待ってはくれないのだから。 |
「東照公御遺訓」(徳川家康)
≪中国に於ける一般的漢訳より≫
人生有如負重致遠 不可急躁
(人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
視(以)不自由為常事 則不覚不足
急ぐべからず) (不自由を常と思えば不足なし)
心生欲望時 応回顧貧困之時(日)
(こころに望みおこらば 困窮したる時を思い出す
心懷ェ容 則能無事長久 視怒如敵べし) (堪忍は無事長久の基 いかりは敵と思え) 只知勝而不知敗 必害其身 (勝つ事ばかり知りて負くる事知らざれば 害その
責人不如責己身に至る ) (おのれを責めて人をせむるな) 不及勝於過之 (及ばざるは過ぎたるよりまされり) |