【王義之:蘭亭序】


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 東晋・王羲之(303-361)の 「蘭亭序」(張金界奴本)です。 これは、冒頭にある 永和9年(353年)3月3日、王羲之が、当時の名士や一族を 会稽山の麓の名勝・蘭亭に招き、総勢42名で 曲水の宴を開き、その時に作られた詩27編(蘭亭集)の序文として 羲之の書いた草稿を、後の能書家が 臨模したり 模刻したものの中の一つで、 “行書の手本” として定番の 極めて著名な法帖です。書は無論、文章としても大変立派な文章ですので、ここでは書写体、和様体等の練習文としてもご利用下さい。

本文▽読下▽訳文▽蘭亭詩▽) (肉筆△)

蘭亭序前段

蘭亭序後段

=蘭亭序 本文=


蘭亭序 (本文)
 永和九年 歳在癸丑 暮春之初、会于会稽山陰之蘭亭 脩禊事也。群賢畢至 少長咸集。
 此地有 崇山峻領 茂林脩竹。又有 清流激湍 映帯左右。引以為 流觴曲水 列坐其次。雖無 糸竹管弦之盛、一觴一詠 亦足以 暢叙幽情。
 是日也 天朗気清 恵風和暢。仰観 宇宙之大 俯察 品類之盛、所以 遊目騁懐、足以極 視聴之娯。信可楽也。
 夫人之 相与俯仰一世、或取諸懐抱 悟言 一室之内。或因寄所託 放浪 形骸之外。雖 趣舎万殊 静躁不同、当 其欣於所遇 暫得於己、快然自足 不知 老之将至。
 及 其所之既惓 情随事遷、感慨係之矣。向之所欣 俛仰之 以為陳迹。猶不能 不以之興懐。況脩短随化 終期於尽。
 古人云 死生亦大矣、豈不痛哉。毎覧 昔人興感之由、若合一契 未甞 不臨文嗟悼 不能 喩之於懐。
 固知 一死生 為虚誕 斉彭殤 為妄作。後之視今 亦由 今之視昔。悲夫。
 故 列叙時人 録其所述。雖 世殊事異 所以興懐 其致一也。後之覧者 亦将 有感於斯文。


蘭亭序には 総数 324文字の漢字が使用されていますが、内、1回のみの漢字は 154文字で、残りの170文字は 53種の漢字が重複して使用されていますので、実質 207文字(種)です。 文字ごとの使用回数は以下の通りです。
[20回=之、 7回回=以,所,一,不、 5回=其,懐,於、 4回=也,為,亦,人、 3回=脩,事,雖,足,有,仰,興,視,感、 2回=和,会,
 山,至,竹,流,觴,列,盛,暢,叙,情,大,俯,夫,世,或,殊,欣,知,將,隨,矣,死,生,覧,昔,由,文,能,後,今、 1回=外154字。]

=蘭亭序 読下し文=

 蘭亭序(読み下し)

 永和九年、歳は癸丑に在り。暮春の初、會稽山陰の蘭亭に会す。禊事を修する也。群賢畢(ことごと)く至り、少長咸(みな)集まる。此の地に崇山峻嶺、茂林脩竹有り。又、清流激湍有りて左右に暎帯せり。引きて以て流觴の曲水と為し其の次に列坐す。
 糸竹管弦の盛無しと雖も、一觴一詠、亦た以て幽情を暢叙するに足れり。

 是の日也、天 朗らかに 気 清み、恵風 和暢す。仰ぎて宇宙の大なるを観、俯しては品類の盛んなるを察するは、目を遊ばしめ懐ひを騁(は)するの所以(ゆえん)にして、以て視聴の娯みを極むるに足れり。信(まこと)に楽む可き也。

 夫れ人の相與(とも)に一世に俯仰する、或は諸(これ)を懐抱に取りて一室の内に悟言し、或は託する所に因寄して形骸の外に放浪す。趣舎萬殊にして静躁同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣びて暫(しばら)く己に得るに當りては、怏然として自ら足れりとし、老の将に至らんとするを知らず。

 其の之(ゆ)く所既に惓み、情、事に随ひて遷(うつ)るに及びては、感慨 之に係れり。向(さき)の欣ぶ所は俛仰の間に以(すで)に陳迹と為る。猶 之を以て懐ひを興さゞる能はず。況や脩短、化に随ひ、終に尽くるに期(ご)するをや。

 古人云ふ、死生も亦た大なり、と。豈、痛ましからずや。毎(つね)に昔人の感を興すの由を攬(み)るに一契を合するが若く、未だ嘗て文に臨みて嗟悼せずんばあらず。之を懐(こころ)に喩す能はず。
 固(もと)より知る、死生を一にするは虚誕たり、彭殤を斉(ひと)しくするは妄作たるを。後の今を視るも亦、由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。悲しきかな。

 故に時人を列叙し、其の述ぶる所を録す。世、殊に事 異ると雖も懐ひを興す所以は其の致 一なり。後の攬ん者も亦た将に斯の文に感ずる有らん。

【補注】:脩=修。 領=嶺。暎=映。 坐=座。絲=糸。 弦=絃。 惓=倦。
「斬+足」=暫。 攬≒覧。 叙=序。

=蘭亭序 釈文=

 蘭亭序(通釈)

 永和九年、癸丑の歳、春三月初め(三日)に会稽山の麓の蘭亭に集まった。春の「禊の礼」を執り行う為である。諸賢もこぞって来会し、老いも若きもみな集まった。この会稽の地には高い山や険しい峰、豊かな林や立派な竹林がある。更に清らかな流れや瀬が、風景を流れに映して左右に巡っている。その水を引いて流觴曲水の宴席を造り、そのへり(次)に並んで座った。笛や琴のなどの賑やかさは無かったけれども、一觴の酒に一首の詩を詠み、奥深い詩情を述べるのには十分である。

 この日、空は晴れ空気は清らかに澄んで、春風がのびやかに吹いている。仰いで天の広大な広がりを観、俯しては万物の活き活きとした様を見ることは、目を楽しませ、心に思いを馳せる源であり、以って耳目の喜びを尽くすには十分であり、まことに楽しき佳き日である。

 およそ人間がこの世に生活するに、ある者は気の合う者同士、部屋の中で親しく語り合い(悟言)、またある者は自分の心の趣くまま、しがらみを離れた境地をさすらいもする。人の好みや楽しみは様々で、静・動の趣きも同じではないが、少しでも己が意を得たならば、暫くは大いに自ら満足し、年をとるのも忘れるほどである。

 しかしその満足も、やがて慣れ飽きて、興味の対象が時とともに遷移すると、今度はそちらに感慨を抱くようになる。つい先程まで善しとしていたものが、僅かな時を経ただけで過去の古臭いもののように感じられもする。そう思うと殊に感慨深いのである。ましてや生命の長短は天(自然の摂理)に従い、終には死を迎えるのである。

 古人も「死生ほど重大なことはない」と言っているが、まことに死生には心を痛めずには居られない。古の人々が死生に心を動かしたことを目にするごとに、符節を合わせたように今も昔も同じで、そういう文章をみる度に悼み悲しむばかりで、心の動揺を収めることが出来ない。
 もとより、生と死とを同一に見なすのも、生命の長短(彭=彭祖、殤=殤子:夫々長・短命者の例)を等しく見なすのも虚妄であるのは解ってはいるのだが。

 後世の人が現在の我々のことを想うのも、今の我々が昔の人々のことを想うのと同じだろう。悲しいことだ。 それ故、この蘭亭に会した人々(四十一人)の名前を連ね、その想いを述べた詩文を録する。想いを興す所は同じであろうから、後世になってこの詩文を読む者もやはりまた感慨を覚えるところがあるだろう。


【王羲之:蘭亭詩(拓本外)

=下は この時の王羲之本人の詩6篇の内の一部です=
(一)
代謝鱗次 忽焉以周 代謝 鱗ノゴトク次ツイジ 忽焉トシテ以ッテ周アマネ
欣此暮春 和氣載柔 此ノ暮春ヲ欣ビ 和氣ハ載ココニ柔ラグ
詠彼舞雩 異世同流 彼の舞雩ブウノ詠、世ヲ異ニスルモ流レヲ同ジウス
(迤)携齊契 散懷一丘スナハチ 契ヲ齊ヒトシク携ヘ 懷ヒヲ一丘ニ散ズ
=大意=
『時の移り変わりは魚の鱗のように整然と、たちまちのうちに隅々まで行き渡り、
『今のこの暮春の陽気を悦ぶが如く、和気は更に和らいでいる。
『かの舞雩の雨乞いの宴の如く、時代は違っても人の心根は同じで、
『契(同じ風流?或いは契=禊?)を携え想いをこの丘で詠じようとしている。

(二)
悠悠大象運 輪轉無停際 
 悠悠トシテ大象(宇宙)ハ運メグリ、輪転シテ停マル際無ナシ。
陶化非吾匠 去來非吾制
 陶化(自然)ハ吾ガ匠タクムルニ非ズ、去來(時間)ハ吾ガ制スルニ非ズ。
宗統竟安在 即順理自泰
 宗統(創造主)竟ツヒニ安イズクニカ在ル、即チ理ニ順シタガヒテ自ラ泰ラカナリ。
有心未能悟 適足纏利害
 有心(俗物の自分)ハ未ダ悟ル能ハズ、適足セントスルモ利害に纏ハル。
未若任所遇 逍遙良辰会
 未だ若かず 遇ふ所に任せて 良辰の会に逍遙するに。
=大意=
『天地宇宙は悠然として変化し、その動きは次々とめぐり止まる所を知らない。
『そういう自然の造化は我々人間が何らかの関わりを持てる訳でもなく、その時間
 の推移もまた同様である。
『それを司る御方が何方かは知らないが、自然は実に合理的に淡々と巡っている。
『然し人間の自分は中々悟り切れず、今に満足しようとしても俗念が纏わり付いて、
『未だ成り行きに任せて、今この良晨の禊の宴に遊んでいるにしくは無い。
 ※読し、大意とも 文献僅少の為不備多きかと思いますがご容赦下さい。




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