T般若心経

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 「般若心経」 は、観自在菩薩(観音様)が 釈迦の弟子の舎利子(達)に “真の悟り” とはどういうものか説かれた言葉を、中国の僧 玄奘三蔵(三蔵法師)が漢訳した経典です。“経典” ですが 「宗教というよりむしろ科学、哲学」 という捉え方が大変多く、実際その通り立派な科学的な理論でもあり、信仰の有無や宗派に関わらず 最も多く 「写経」 の対象とされる大変著名な経典でもあります。
 そういう立派な書ですので標準的な本文例と読み方を置いてみました。 単純に “” としても、四角張った 書体や書式、筆記具等に拘らず、只々 文言と向き合い、只々 書いてみるのも悪くないものです。
 字面上のごく大雑把な意味らしきものは一応添えましたが、宗教上の 詳しい意味や解釈、写経書式等は 専門の出版物やWEBサイト等が多々ありますので、そちらにお依り下さいますようお願い致します。 [意訳] [直訳例] [写経書式例] [△語彙等]

【般若心経の 読み方】


 (※ 文字が小さくて読み難い場合は、画像活字/毛筆を拡大してご利用下さい。)
(総字数は 276文字ですが、内、29種 131文字は複数回使用されており、実質の文字数は145種類です)

【ごく大雑把な意味】 (⇒用語)

(宗教的には・・・ 或いは 過誤あるかもしれませんが 「書」 のサイトに免じてご容赦下さい。)

 『偉大な、真の悟り(大安心の境地)に至る智慧(智慧の完成) の真髄の教え』・・・(経題)

 『観音様は 智慧の完成の修行の瞑想をされている時、 「人間の身体や、感覚や知覚、意思や深い心の動き等の全て(五蘊)は、そうあるように見えたり思えたりはしているが、実はそれは幻のようなもので実体の無い 「空」 という様態 があるだけなのだ と 見極められ、全ての煩悩や災厄から解放されました。』

*「五蘊」 とは」=肉体や器官(物)、 「」=感覚、感受、 「」=知覚、想像、 「」=意思、行動、 「」=認識、思惟や心の働き、の五項。

 ・・・(そしてそれを、求道者の長老、舎利子達に以下のように説かれた)・・・

 『舎利子よ、世の中のあらゆる “物事”(モノ や コト) は全て “実体の無い” 「空(クウ)」 という “様態” であって、その 「空」 が あらゆる物事を存在せしめているのである。 これは人間に於いては 「身体」 は実は 「空」 であり その 「空」 は即ち 「身体」 ということである。 これは 「身体」 に限らず、「感覚」 や 「知覚」、「意思や行動」、「精神や心の働き」 の五蘊 全てに同じことが言える。

 これらのあらゆる物事(諸法)は、そういう 実体の無い 「空」 という様態なので 生滅とか 美醜とか増減 等々、それら自体が変容することは無い。

 また人の営み(五蘊)が全て 「空」 という様態である故、目、耳、鼻、舌、脳、心・・・というような “実体として” の器官(=色)も、 “それらから受ける” 感覚(=受)も無く、“それが何か” の知覚(=想)も 無い。 また、 “煩悩とか愛憎とか 苦楽とか生死とか、顕在、潜在のあらゆる人間の営み”(=行) も無く、 そもそもの根源 の “苦” とか “その原因” とか、 “苦の滅却とかその手段とかの 心の奥底の働き” も、更に又々 “悟りとか悟りを得るということ” (=識) も、実は 実体は 無い(=空)ということである。

 悟りも悟りを得ることも無い ということ故、古来の立派な 坊様や仏様達は、この 「全ては 空 である」 という 真の悟りの智慧(智慧の完成=般若波羅蜜多)によってのみ、あらゆる蟠(ワダカマ)りや 恐怖や 煩悩 から解放され、究極の境地 に達せられた。
 それほどに、 “あらゆる物事は全て 空 である” という この 「真の悟りの智慧」 は、神聖、明白、比類なき唯一無二の、大安心の境地をもたらす素晴らしい教えである。

 さあ では 「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶(成就、成就、悟りの成就、全き悟りの成就よ、悟りに幸あれ!)」 と唱えて(それを真に正しく理解して感得出来るよう )しっかり頑張れ! 以上が 「智慧の完成」 の全てである。』 ・・・というところでしょうか。

*「空クウ」 とは『世の中のあらゆる “物事モノゴト” は、宇宙のあらゆる “モノ(物質) や コト(現象)(=原因)同士が関わり合いつつ(=縁) 変化を繰り返す中で、その場その時の 一つの “様態” としての 存在(=結果) であって、その存在(物事A)は また次の瞬間には別の他の “物事B,C,…” を生む無数の原因の一つとなって働き、更にその “物事B,C,…” は また他の別の “物事α,β,…” の・・・ と、連綿と繰り返す。
 このように全ての “存在” は、 無数の “因 や 縁” によって決定付けられた “その場その時々の一時の様態” であって、“それそのものが 実体として存在” するのではない。しかし又、決してそこで消えてしまう “無” でもない、掴み所の無い空しい様態、それが即ち 「空クウ」 である。ということのようです。   (⇒参考

 「般若心経」 は、仏教の 「人生は苦悩や迷いに満ちたもの」 という大前提のもと、どうしたらそれを克服し、平穏な大安心が得られるか、その “究極の大安心の境地(悟り)に至る方法(智慧の完成)” を説いた経典 ということのようです。 観音菩薩も 「その “修行” をされている時に照見された」 とあるので、本来は “行じて感得” すべきことなのでしょうが、 信仰心の薄い凡夫には 中々の難題です。
 ただ、“行じて” とは言え、ここではその 「智慧の完成」 の “理論” を懇懇と説かれています。それは この “理論” それ自体が、少なからず重要な地位を占めるもの であろうことが伺えます。
 「苦も煩悩も、“因” や “縁” に依ってもたらされた ひとつの様態(“果”)であって、言わば混沌とした、それそのものとしての実体の無い “虚しいもの” 故、そこに一喜一憂する必要は無い」 と 論理的に諭されると、“空” に幾許かの未消化は残りつつも、なるほど 確かにそうで、この経典が 哲学、科学 だと言われる理由もよく解るような気がします。
 一方、確かに現在そこに在る物事については、左様に 「成るべくして成った結果」 と一応の諦め(明らめ)はつけられても、 「成るべくして成る」 べき未来については、その “因” となるに最も近しく最も大きい自分自身、「どうある(する)べし」 「こうある(する)べからず」 等々、また別の理念、 “宗教” が生まれるのも十分頷けるところです。
 なお後段の 「呪」 は字面からは “マジナイ” という意味が強そうですが、ここは単純に 「言葉」 と見ては 如何でしょう? また 「真言」 には “秘密の言葉” 等の意味もあるようですが、元々サンスクリットの “言語” ですから 当初は当然 “ごく普通の言葉” だったでしょう。 漢訳されなかったのは、その中に多くの教えが込められている という意味でしょうから、いわば 「南無阿弥陀仏」 や 「南無妙法蓮華経」 等 と同様な位置にあると考えてよいのではないでしょうか。
 であれば、 『是大神呪〜是無等等呪』 は この心経全文に対する言及であり、 且つ 『羯諦羯諦〜菩提薩婆訶』 は、(「ガンバレ、ガンバレ」 と訳する方もあるように) “真言” というより むしろその総体としての “集約”(或いはそこへの “エール、鼓舞”) と見た方が、文意としても よりしっくり来そうに思えます。

(段落別 解釈例)

〇経題(「魔訶」…有無あり。)
【魔訶般若波羅蜜多心経】

 『魔訶(偉大な)(悟りに至る)智慧(般若)の完成(波羅蜜多)を説いた 真髄の教え(心経)



〇前置き(観音菩薩か以下を悟った、と。)
【観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五陰空 度一切苦厄】

 観自在菩薩(観音様)が、深遠な究極の悟り(智慧の完成=般若波羅蜜多=梵語)の修行をされていた時、人間の五蘊(五つの営み)(1)色蘊(身体)(2)受蘊(感覚)(3)想蘊(知覚、想像)(4)行蘊(意思、行動) (5)識蘊(認識、思惟) は、全てみな “空、即ち 実体の無い その場その時の一時の様態” である、と悟られ、一切の苦や災いから超脱された。



〇観音菩薩か悟った 「空」 の総括説明(仏弟子の舎利子への)
【舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是】

 『舎利子よ、あらゆる “物質” と “空” は 夫々異なるものではない。 物質は 即ち 空、 空は 即ち 物質 と言えるのだ。 これは 人間であれば 「身体」 であり、更にその感覚や 知覚、意思や 思惟 といった、器官や 心のあらゆる営みも、実は 実体は “無” く、“空” という 様態 にあるだけ ということである。』

【舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減】
 『舎利子よ、またこれらの諸法(諸事=五蘊)が その “空” という様態にあるだけで “実体が無い” ということは、そこには 生死や 美醜も 増減 といった変化や推移も無い ということである。』



〇「空」 の 「五蘊」 ごとの個別説明(…続いて、それらは実は “無” である、という)
【是故 空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界】

 『五蘊が “空” という様態であるということ故、色(身体)も、受、想、行、識(内なる働き)も無い。 つまり、 目、耳、鼻、舌、体、心 等の 器官 (1)色、声、香り、味、触感、秩序 (2) (十二処) も、 それらから得る」 感覚や 認識 や 心の彩 (3) (十八界)等々も実体は無いのである。』

【無無明 亦無無明尽 乃至 無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得】

 『且つ又 “苦” の生ずる元となる 無明〜老死 の因縁 (4) (十二因縁)とか、 そもそもの大前提の 苦 も、苦の根源の煩悩も、その滅却も、その為の手段 (四諦) も無く、更にそれらを超越した 悟りの “智慧” も、その智慧を “得る” こと (5) ・・・も無いのである。』

「十二因縁(=十二縁起)」 「四諦」 は、これらも 実は 「実体の無い “空”」 なので、必ずしも個々の文言の深い理解は重要
  ではない、つまり、どんな言葉も事柄も、小難しい意味より それが実際は “空” であるという認識の方が重要、ということか。
★※1〜※5 の番号を付した項は 五蘊の説明だが、内、※4 と ※5 は 此処のように 五蘊の一つ とみる解釈には行き当らず、
  大方はほぼ独立した 「十二因縁」「四諦」 としての説明に尽きる。 然し、経文の構成から言えばここはまだ 「五蘊」 の説明で
  あって、前項の 「乃至」 から考えても この方が適切かと、意味はさほど大きく変わるものではないが敢えて注記した。



〇以上であるが故に。・・・(※この段、前項に掛かる の異説有。)
【以無所得故】

 『そういう 悟りの智慧も それを得ることも無い、ということであるから』・・・(ここは次項へ繋ぐ。)



〇「菩薩」 と 「三世の諸仏」 の 「真の悟りの智慧(般若波羅蜜多)」 の功徳。
【菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃】

 『菩薩(求道者=菩提薩埵=梵語) 様達は、この “空” という “真理” 即ち 般若波羅蜜多(智慧の完成) によって(のみ) 心の蟠(ワダカマ)りが無くなり、その故に迷いも恐れも消え、涅槃の境地を極められ』

【三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅 三藐三菩提】

 『三世(過去 現在 未来)の諸仏達も、この般若波羅蜜多によって(のみ) 究極無上の境地(阿耨多羅三藐三菩提=梵語) を得られたのである。』



〇この 「真の悟りの智慧」 の優越性。(唯一無二の絶対性。)
【故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚】

 『故に、この 「般若波羅蜜多(=あらゆる “物事” は、“周囲の条件” によって決定付けられる、その場その時の “様態” であり、それ固有の “モノ や コト” としては、“実体の 無い 「空クウ」 なのである” という真理を見極めること は、それほど神聖で無上無比、嘘偽りの無い正真の真理なのである。』



〇その 「真の悟りの智慧」 の真言 とは、こういうものである、と。
【故説 般若波羅蜜多呪 即説呪曰 「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶」 般若心経】

 『そういう有難いものである故、 「一にも “空”、二にも “空”、とくとこの “空” と向き合って、 「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶(=梵語。成就、成就、悟りの成就、全き悟りの成就よ、悟りに幸あれ!)」 と唱えて(それを真に正しく体感出来るよう )しっかり頑張れ!」・・・以上が この智慧の完成の全てである。』 と説かれた。

★原文は 「一切の苦を除き、真実で嘘が無い為、“智慧の完成” の時にその真言は “羯諦〜薩婆訶” と読まれる」 である。
★“宗教的” には 「真言は唱えるもので意味を詮索するものではない」 という捉え方が主流だが、元々サンスクリットの 「言葉」。
  “哲学的、或いは 世俗的” には、 「鼓舞・鼓吹」 の為の 内容を凝縮した一種の 「掛け声」 とも・・・。



*⇒似た者同士? 或いは似て非?⇒ 聖書 [馬太伝](〜25節〜)もどうぞ⇒*

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【参考:写経の書式例】


 “写経” 書式の一例です。 正式な書式や作法は、宗派等によって多少の違いがあるようです。手本の書式に従ってください。

毛筆写経例  総字数は 276文字ですが、内、29 131文字は重複分、実質145種類で、下がその使用回数です。
 21回=無、 回=羅,不,是、
回=波、 回=般,若,多,空,故、回=蜜,色,呪、 回=菩,亦,羯,諦、 回=心,薩,行,一,切,苦,想,識,得,提,三、 回=説,(訶)
 以外の116(5)文字が回です。
(←画像はclick拡大)

【参考:黒崎宏 成城大学名誉教授 訳】


 黒崎宏という成城大学名誉教授の、「理性の限界内の『般若心経』-ウィトゲンシュタインの視点から」 という書物にある訳です。

全知者である覚った人に礼したてまつる。

観自在菩薩は、「智慧の完成」によって、この世は空である、と見極めた。
色は空であり、であるからこそ、色が色でありうるのである。
色は空に異ならず、空は色に異ならず。 色は即ち空なり、空は即ち色なり。
同様に、心も空なり。

この世において、一切は空である。 よって一切は、不生不滅、不垢不浄、不増不滅である。
空の立場においては、五蘊も十八界も存在しない。 無知もなく、無知もなくなることがない。
苦も、苦の原因も、苦を滅することも、苦を滅する道もない。
悟りもなく、涅槃もない。

そもそも涅槃というものがある訳ではない。したがって、求道者たちは、ただひたすら「智慧の完成」によって、心の束縛から解放されるのである。
そして求道者たちは、何も恐れることなく、心に迷いはなくなるのである。こうして求道者たちは 永遠の平安に入る。

目覚めた人々は、すべて「智慧の完成」によって、目覚めたのである。
ゆえに知るべし。「智慧の完成」は、すべての苦しみを鎮める大きな力を有している、と。
ガンバレ! ガンバレ!
以上が、「智慧の完成」(「般若波羅蜜多」)という事の真髄である。




【参考:サンスクリット原文直訳】

大崎訳.pdf仏教WEB、他を参照しています。)

『全知の人に礼し奉る』

『ある時 世尊は、王舎城(地名)の霊鷲山に 大勢の修行僧や菩薩達と共に居られた。そして実にその時、世尊は “深遠な悟り” と呼ばれる瞑想に入られた。』

 ============================================

『すると、聖なる偉大な(摩訶薩)観自在菩薩は、その傍らで深い「知恵の完成(般若波羅蜜多)」の修行を実践されている時、“物事” には五つの要素がある、と見抜かれ そしそれらがその本性において空であると見極められた。』

『そこで、長老シャリプトラは、仏の力によって聖なる観自在菩薩に次のように尋ねた。』

『誰であれ、深い般若波羅密多の修行をしたいと願う立派な若者がいたら、どの ように学んだらよいであろうか。』

『このように問われて、聖なる観自在菩薩摩訶薩は、長老シャリプトラに次のように応えた。』

『シャリプトラよ、誰であれ、立派な若者、或いは立派な娘でも深い般若波羅密多の修行をしたいと願うなら、このように見極めるべきである。』

『五つの要素がある。そしてそれらがその本性において空であると見極めよ。』

『物質は空性であり、空性とは物質に他ならない。『空性は、物質と別ではなく、また物質も空性と別物ではない。物質なるもの、それは空性であり、空性なるもの、それは物質である。』

『このように感知作用・知覚作用・意志作用・認識作用もまた空性である。』

『シャリプトラよ、このようにあらゆるものは、空性という特徴をもつ。そしてそれらは生ずることもなく滅ぶこともない。汚いこともなく浄いこともない。減ることもなく増えることもない。』

『シャリプトラよ、それ故にその時空性においては物質はなく、感覚・知覚・意志・認識等々の作用もない。』

『つまり、眼や 耳・鼻・舌・身体・心もなく、物質や 音・匂・味・触・心の対象もなく、眼に映る世界もなく、心の世界もなく、心の対象の世界もなく、心の認識の世界に至るまで全てない。』

『悟りは、存在しないし、迷いや煩悩も存在しないし、これらがなくなることもない。さらに老いや死もなく、老いや死がなくなることもない。』

『苦悩・根源・抑制・道筋は存在しない。知ることがなければ、得ることがない。得ないこともない。』

『シャリプトラよ、それ故に得ることがないために、菩薩の般若波羅密多のお陰で、人は心を覆うものは何もなく暮らしている。』

『心を覆うものは存在しないので、恐怖もない。誤った見解から離れており、永遠の悟りに入っている。』

『過去・現在・未来の三世の仏達は、般若波羅密多によって、無上で正しい完全な悟りを得た。』

『それ故に知るべきである。般若波羅密多の大いなる真言は、大いなる悟りの真言、最高の真言、比類のない真言、すべての苦しみを鎮める真言である。』

『真実にして嘘がないため、般若波羅密多の時に、この真言は、次のように誦まれる。』

『行く人よ、行く人よ、彼岸に行く人よ。彼岸へ完全に行き着いた人よ。悟りよ、幸 いあれ!』(『成就よ、成就よ、 悟りの成就よ、完全なる悟りの成就よ、万歳!』)

『シャリプトラよ、深い般若波羅密多の修行の時には、菩薩はこのように学ぶべきである。』

 ============================================

『さて実にその時、世尊が瞑想から起き上がられ、聖なる観自在菩薩への賛辞を与えられた。』

『その通りだ。その通りだ。立派な若者よ、まさにその通りだ。まさにこのように深い般若波羅密多の時に修行がなされるべきである。汝によって説かれたように、如来達や阿羅漢達によって一緒に受け入れられている。』

『このように世尊は、喜びの心で言われた。』

『長老シャリプトラと聖なる観自在菩薩、そしてその他すべての集会、および神、人 間、阿修羅、ガンダルヴァ(天の楽師)を含む世界の人達は、世尊の言葉に歓喜した。』

『般若心経 が完結した。』



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